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2004.10.28

私説・釈由美子論2

 才能をはっきり認識したのは、5年くらい前だと思う。その才能とは、「個性のなさ」だった。

 当時、釈ちゃんというと、エキセントリックな言動で「個性的なタレント」という評価をうけていたと思う。でも、それは個性がないため、なんとか他者との違いを出そうとした結果の「戦略」だったように思えてならない。実際、女優として売れてからの釈ちゃんは、あの突拍子もない発言をほとんどやめちゃった。つまり、あれはセールスのための、いわば「かぶりもの」だったということだ。

 こう思っていたのは、私だけじゃなかった。3~4年前かな、昼飯を食いながらワイドショーを見ていたら、おすピーのピーコが釈ちゃんのファッションを分析して、同じようなこと(ファッションがひとり歩きして、個性がないというようなこと)をいっていたもの。それを見て、やっぱりなあと思ったりして。

 実際、釈ちゃんはほとんど個性がない。こういうと、ネガティヴ・イメージになるかもしれないが、釈ちゃんの場合はそうじゃない。「武器」になる。つまり、個性がないから、「かぶりもの」を変えると、それになりきってしまうのね。いってみれば「コスプレ好適タレント」なのだ。

 とくに、戦闘服系が似合う。カンフースーツなんかをふくめて。まだやってないけど、たぶん、鎧武者なんかも似合うはずだ。もちろん、その他のコスプレも、なにやってもぴったりにちがいない。これが釈ちゃんの才能、あるいは武器なのだ。ほんと、顔つきからなにから、一変しちゃうんだよね。

 ふつう、役者は個性をウリにすると思うけど、釈ちゃんはこの「無個性」が個性・才能になっているわけ。

 それで、ずっと「マチルダさんをやらせたら似合うぞ」とか(^^; 思っていたんだけど(この願いは後日、近いかたちで実現した@バンダイ・ミュージアム)、同じようなことを考える人はほかにもいっぱいいたようで、そのひとりが『修羅雪姫』の監督、佐藤信介だったのだと思う。

 私のなかでは、このキャスティングが発表になった時点で、『修羅雪姫』は傑作にちがいないという評価ができちゃってたような気がする。それほど、この映画は釈ちゃんにあっていたし、釈ちゃんがいなかったら、この映画は成立していなかったと思うのであった。(つづく)

 ひとつおまけ。『修羅雪姫』DVD・通常版のジャケット写真を見つけた。プレミアム版とはこんなに違う。

shura02.jpg
(C)修羅雪姫制作委員会

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